(1)<症例3>75才の男性
右眼の黄斑円孔のため硝子体手術を行い、20%C3F8ガスを注入した。1ヶ月後、緊急の頸の骨折手術をN2O全身麻酔下で行った。手術時間は4時間であった。手術後覚醒時右眼は光覚無しであった。右眼の硝子体腔の50−60%にガスが入っていた。網膜中心動脈閉塞症が原因であった。
<症例4>19才女性
1型糖尿病、高血圧、腎臓機能低下がある。左眼の増殖糖尿病性網膜症と網膜裂孔に対して硝子体手術が行われSF6ガス注入が行われていた。25日後、膵臓、腎臓同時移植がN2O全身麻酔下で行われた。手術は5時間であった。手術後左眼は光覚無しとなり、眼圧は40mmHg、硝子体腔には100%ガスが満ちていた。網膜中心動脈閉塞症が生じていた。
(2)考察:
この2症例を含むかなり多くの失明症例が2002年になって急激に報告されている。重大な事故と思われるので、その原因と防止策について詳述する。
まず第1の手術でガスを注入するわけであるが、ガスの完全吸収には空気で1週間、SF6で2〜3週、C3F8で約1ヶ月かかるとされる。しかし実際にはC3F8ガスで70日(10週)ガスが残存していたことが報告されている6)。
硝子体腔にSF6、C3F8ガスなどの膨張性ガスがあると、通常は血液中の窒素ガスが入ってきてガスは膨張する。ところが、手術に使う笑気ガス(N2O)は窒素ガスの34倍も溶解性が高い為、第2の手術中全身麻酔にN2Oを使用すると硝子体腔にN2Oが侵入し硝子体中のガスは非常に膨張し、著明に眼圧を上昇させる(図参照)。通常はN2Oガス投与から15分から24分で著明に眼圧が上昇する7)。恐らく症例3、症例4とも眼圧が網膜中心動脈圧(通常60ー70mmHg)を超え網膜中心動脈閉塞症を生じたものと思われる。
回復不能の失明に至るのは眼圧上昇による網膜中心動脈閉塞とそれによる網膜虚血が100分以上続いた場合である3)。この3)文献では、第2の手術が1時間のものでは網膜中心動脈閉塞症が生じたもののその後の処置で視力(08)まで回復している。第2の手術が2時間のものでは(眼圧が上がっていた時間は100分弱と思われる)網膜中心動脈閉塞症が生じたが、その後視力(01)に回復している。他方、第2の手術時間が3時間、4時間のものはすべて光覚が無い結果となっている。やはり網膜虚血時間100分というのが分かれ目になると考えてよいようだ。
なお、手術がおわりN2O濃度が下がると、N2Oは急激に硝子体腔を去り眼圧も急激に下がる。笑気麻酔以外の他の麻酔法で眼圧が上がる報告はない。
(3)事故防止策:
膨張性ガスは、長く見積もって70日(10週)は、眼内に残存している可能性がある。従って、ガスを注入してから第2の手術まで3ヶ月間(12週)は危険な時期と考え、仮に全身麻酔の外科的手術が必要とされても、N2Oを使用しない麻酔法、例えば静脈麻酔法等を使用するよう麻酔科医に伝達する必要がある。
眼科専門医がガスを注入した患者に「3ヶ月以内は笑気による全身麻酔を行わないように」との伝達を文書や口頭で行う必要があるのは勿論である。しかし、患者の理解力には限度があり、また意識不明で緊急手術が行われる場合も考えられる。そのため、ガスが硝子体中にある間、患者の腕に腕輪をする方法が考え出された(写真参照)。腕輪には「網膜手術のため、N2Oガスを投与しないでください」と書いてある。腕輪はガス注入からガスが消失するまで装着する。これにより、いかなる事態が起きようと、麻酔科医に全身的N2O麻酔を避けるよう警告できると考えられる。アメリカFDA(食品医薬品局)では、全米のガス注入を行う病院に、この種の腕輪を配布しようとしている。
日本では、まだこうした第2の手術のN2O使用で失明に至った症例の報告はない。しかし、これだけ眼科手術で膨張性ガス使用が増えてきている以上、いずれ第2手術でN2Oが使用され失明事例が増加することが予想される。法律的には、眼科専門医がガス注入後、患者に「3ヶ月間はN2O使用の全身麻酔手術を受けないように」との警告を怠ったり、第2の手術の麻酔医に伝達できたのに「N2O中止」を伝えなかった場合には、患者の失明に対して過失責任を問われることになると思う。
厚生労働省、日本眼科学会、日本麻酔学会の協力による、笑気添付文書の改訂、教科書的記述の変更、腕輪の全国的配布等の早急な措置が望まれる。
文献
1)竹内忍:硝子体手術 手術操作眼科学体系9眼科手術、増田寛次郎ほか編、中山書店、東京、550−553、1993
2)池田恒彦、田野保雄:ガスタンポナーデ時の眼圧の推移について 眼紀 39:606−609、1988
3)Arthur D, MCdonald R, Eliott D,et alCompliCations of general anesthesia using nitrous oxide in eyes with preexisting gas bubblesRETINA 22:569−574,2002
4)Polk JD, Rugaber C, Kohn G,et alCentral retinal artery oCClusion by proxy: A Cause for sudden blindness in an airline passengerAViat SpaCe EnViron Med 73:385−387,2002
5)DieCkert JP, O'Connor PS, SChaCklett DE,et alAir traVel and intraoCular gasOphthalmology 93:642−645,1986
6)Vote BJ, Hart RH, Worsley DR, et alVisual loss after use of nitrous oxide gas with general anesthetiC in patients with intraoCular gas still persistent up to 30 days after VitreCtomyAnesthesiology 97:1305−1308、2002
7)Seaberg RR, Freeman WR, Goldbaum MH, et alPermanent postoperatiVe Vision loss assoCiated with expansion of intraoCular gas in the presenCe of a nitrous oxide-Containing anesthetiCAnesthesiology 97:1309−1310、2002 |