眼内ガス注入後の「笑気(N2O)使用全身麻酔手術」による失明事故の問題点
ー法律的問題と事故防止策ー
I 問題の所在

眼科領域における網膜、硝子体手術は近年格段に進歩し、よい術後成績を残すようになってきている。この進歩に大きな役割を果たしているのが、眼内充填物質である。眼内充填物質には、空気、膨張性ガス(SF6,C3F8)、シリコーンオイル、液体パーフルオロカーボンなどがある。今回問題にしたいのは膨張性ガスのうちよく使われる、SF6 (6フッ化硫黄)とC3F8(8フッ化プロパン)である。膨張性ガスは眼内に注入されると、血液中の窒素と結合することで窒素の眼内への拡散を促しその結果気体は膨張する。膨張したガスはその浮力でその直上にある網膜を上に押し上げ、網膜を復位させる効果を示すのである。網膜剥離手術の後や硝子体手術の後に使われることも多いが、黄斑円孔や部分的網膜剥離に対しては、手術を経ず、ガス注入だけで治療する場合も多くなっている。

合併症として最大の問題は眼圧上昇である。ガスが最大に膨張するのはSF6で約24時間後、C3F8 で約72時間後であるが、膨張率は最初の6時間で最も高く眼圧上昇はガス注入直後から始まる1)。100%SF6ガスを硝子体内にワンショットで05CC注入した実験では、注入直後平均51mmHgの眼圧(正常11〜20mmHg)になったとの報告がある2)。

網膜中心動脈の動脈圧が通常60〜70mmHgであるので、眼圧がこの動脈圧に近づくか超えれば、網膜中心動脈は閉塞し、閉塞が100分以上続けば回復不能の失明に至るとされる3)。

危険な場面は3つある。1)眼科専門医がガスを注入直後、眼圧が上昇してすぐ下がらなかった場合、2)ガス注入後ガスが残存しているうちに、飛行機に搭乗し室内気圧が下がったためガスが膨張して眼圧が上昇した場合、3)ガス注入後ガスが残存している時に、別の外科的手術で笑気麻酔を行いガスが膨張して眼圧が上昇した場合である。1)、2)については以前から報告はあるが、3)の第2の手術で笑気ガス麻酔をして失明に至った事例は2002年に報告が相次いでいる最新事例であり特に注意が必要と考えられ、後で詳しく述べる。

II 眼科専門医だけの問題点

(1)<症例1>50才女性
低血圧の持病がある。右眼の黄斑円孔と黄斑部網膜剥離のため、眼圧を下げる点滴を行った後、午後6時頃100%SF6ガスを05CC右眼硝子体中に注入された。注入直後から激しい眼痛、頭痛、嘔気が生じたが、医師は来ず、看護師が鎮痛剤を服用するよう指示しただけであった。午後9時頃まで眼痛と嘔吐が続き、やっと9時になり医師があらわれ、触診をして眼圧50mmHg程度と診断した。2回ガスを抜き眼圧12mmHgになり、痛みや嘔吐感は消えたが、既に右眼は失明状態であった。その後低分子デキストラン、プロスタグランディン、ウロキナーゼ点滴を行ったが視力は殆ど回復しなかった。

(2)考察:
先に述べた100%SF6ガスを硝子体内にワンショットで05CC注入した実験では、注入直後平均51mmHgの眼圧になったが、35分ほどで眼圧は20mmHg程度まで低下するのが通常であるとされる2)。しかし、初期の膨張率はガス周囲の硝子体の状態、液の状態に左右され、眼圧が長時間下がらない場合があると思われる。そして、100分以上50mmHg程度の高眼圧が続けば、回復不能の失明に至る場合があるのは先に述べたとおりである。

眼圧がガス注入直後から上昇するのが通常である以上、眼科専門医はガス注入直後から眼圧の状態、眼痛や頭痛、嘔気等に注意し、眼圧が高い状態が30分程度待っても収まらない場合にはガスを抜くなどの方策を取る必要がある。ガス注入直後からの眼圧観察を怠ったり、ガスを抜く等の適切な処置を行うことなく失明の状態を招けば、失明に対する過失責任を負わなければならないことになる。また、看護師教育も重要で、ガス注入後50mmHg程度の高眼圧が続けば、網膜中心動脈閉塞症から失明に至るとの教育がなされていれば、本件の場合でも医師を呼び出してガスを抜く等の処置が可能であり、失明は避けられたと考える。

なお、低血圧、糖尿病、老人、動脈硬化のある患者では網膜中心動脈圧が低下している恐れがあり、危険因子となる。本件でも低血圧がありこのためより低い眼圧でも網膜中心動脈閉塞症になった可能性がある。

V ガス残存中の飛行機旅行の問題

(1)<症例2>22才男性
右眼の網膜剥離手術として輪状締結術を受け、空気の注入を受けた。2週間後この患者が飛行機に乗り、室内が8000フィート(2440m)相当の気圧になり数時間して地上に帰ってきたところ、右眼は失明していた。原因は気圧低下でガス気泡が膨張し、眼圧上昇した結果、網膜中心動脈閉塞症となった為であった4)。 

(2)考察:
旅客飛行機で最高点に達したとき、外気圧と同じにならないようキャビン内に与圧がかかっているが、それでも高度2500m相当の大気圧まで低下する。地上で760mmHgとすると、高度2500mで560mmHg程度になる。気泡はボイル・シャルルの法則に従い(PV=一定)気圧が低下すると膨張するので、残存ガスが一定多ければガスの膨張のためかなり眼圧上昇し、結果として網膜中心動脈閉塞症になることはあり得ると思われる。サルの硝子体中に空気を025CCから05CC入れ、飛行機の最高点の気圧(8100フィート=2470m相当)と同じにする実験をしたところ、最高で眼圧は平均40mmHgまで上昇し、一過性の網膜中心動脈閉塞症と瞳孔ブロックを生じたとの報告がある5)。

空気でこのような事態が生じるのであるから、眼内残存時間が長いSF6,C3F8 では事態はもっと深刻である。眼科専門医はガスを注入した患者に数ヶ月程度飛行機旅行を避けるよう指導する必要があり、それを怠って網膜中心動脈閉塞症での失明の事態となれば過失責任を問われることになると考える。

W ガス注入後、第2の手術で笑気ガスを使用した全身麻酔を行った場合の危険

(1)<症例3>75才の男性
右眼の黄斑円孔のため硝子体手術を行い、20%C3F8ガスを注入した。1ヶ月後、緊急の頸の骨折手術をN2O全身麻酔下で行った。手術時間は4時間であった。手術後覚醒時右眼は光覚無しであった。右眼の硝子体腔の50−60%にガスが入っていた。網膜中心動脈閉塞症が原因であった。

<症例4>19才女性
1型糖尿病、高血圧、腎臓機能低下がある。左眼の増殖糖尿病性網膜症と網膜裂孔に対して硝子体手術が行われSF6ガス注入が行われていた。25日後、膵臓、腎臓同時移植がN2O全身麻酔下で行われた。手術は5時間であった。手術後左眼は光覚無しとなり、眼圧は40mmHg、硝子体腔には100%ガスが満ちていた。網膜中心動脈閉塞症が生じていた。

(2)考察:
この2症例を含むかなり多くの失明症例が2002年になって急激に報告されている。重大な事故と思われるので、その原因と防止策について詳述する。

まず第1の手術でガスを注入するわけであるが、ガスの完全吸収には空気で1週間、SF6で2〜3週、C3F8で約1ヶ月かかるとされる。しかし実際にはC3F8ガスで70日(10週)ガスが残存していたことが報告されている6)。

硝子体腔にSF6、C3F8ガスなどの膨張性ガスがあると、通常は血液中の窒素ガスが入ってきてガスは膨張する。ところが、手術に使う笑気ガス(N2O)は窒素ガスの34倍も溶解性が高い為、第2の手術中全身麻酔にN2Oを使用すると硝子体腔にN2Oが侵入し硝子体中のガスは非常に膨張し、著明に眼圧を上昇させる(図参照)。通常はN2Oガス投与から15分から24分で著明に眼圧が上昇する7)。恐らく症例3、症例4とも眼圧が網膜中心動脈圧(通常60ー70mmHg)を超え網膜中心動脈閉塞症を生じたものと思われる。

回復不能の失明に至るのは眼圧上昇による網膜中心動脈閉塞とそれによる網膜虚血が100分以上続いた場合である3)。この3)文献では、第2の手術が1時間のものでは網膜中心動脈閉塞症が生じたもののその後の処置で視力(08)まで回復している。第2の手術が2時間のものでは(眼圧が上がっていた時間は100分弱と思われる)網膜中心動脈閉塞症が生じたが、その後視力(01)に回復している。他方、第2の手術時間が3時間、4時間のものはすべて光覚が無い結果となっている。やはり網膜虚血時間100分というのが分かれ目になると考えてよいようだ。

なお、手術がおわりN2O濃度が下がると、N2Oは急激に硝子体腔を去り眼圧も急激に下がる。笑気麻酔以外の他の麻酔法で眼圧が上がる報告はない。

(3)事故防止策:
膨張性ガスは、長く見積もって70日(10週)は、眼内に残存している可能性がある。従って、ガスを注入してから第2の手術まで3ヶ月間(12週)は危険な時期と考え、仮に全身麻酔の外科的手術が必要とされても、N2Oを使用しない麻酔法、例えば静脈麻酔法等を使用するよう麻酔科医に伝達する必要がある。

眼科専門医がガスを注入した患者に「3ヶ月以内は笑気による全身麻酔を行わないように」との伝達を文書や口頭で行う必要があるのは勿論である。しかし、患者の理解力には限度があり、また意識不明で緊急手術が行われる場合も考えられる。そのため、ガスが硝子体中にある間、患者の腕に腕輪をする方法が考え出された(写真参照)。腕輪には「網膜手術のため、N2Oガスを投与しないでください」と書いてある。腕輪はガス注入からガスが消失するまで装着する。これにより、いかなる事態が起きようと、麻酔科医に全身的N2O麻酔を避けるよう警告できると考えられる。アメリカFDA(食品医薬品局)では、全米のガス注入を行う病院に、この種の腕輪を配布しようとしている。

日本では、まだこうした第2の手術のN2O使用で失明に至った症例の報告はない。しかし、これだけ眼科手術で膨張性ガス使用が増えてきている以上、いずれ第2手術でN2Oが使用され失明事例が増加することが予想される。法律的には、眼科専門医がガス注入後、患者に「3ヶ月間はN2O使用の全身麻酔手術を受けないように」との警告を怠ったり、第2の手術の麻酔医に伝達できたのに「N2O中止」を伝えなかった場合には、患者の失明に対して過失責任を問われることになると思う。

厚生労働省、日本眼科学会、日本麻酔学会の協力による、笑気添付文書の改訂、教科書的記述の変更、腕輪の全国的配布等の早急な措置が望まれる。

文献
1)竹内忍:硝子体手術 手術操作眼科学体系9眼科手術、増田寛次郎ほか編、中山書店、東京、550−553、1993

2)池田恒彦、田野保雄:ガスタンポナーデ時の眼圧の推移について 眼紀  39:606−609、1988

3)Arthur D, MCdonald R, Eliott D,et alCompliCations of general anesthesia using nitrous oxide in eyes with preexisting gas bubblesRETINA 22:569−574,2002

4)Polk JD, Rugaber C, Kohn G,et alCentral retinal artery oCClusion by proxy: A Cause for sudden blindness in an airline passengerAViat SpaCe EnViron Med 73:385−387,2002

5)DieCkert JP, O'Connor PS, SChaCklett DE,et alAir traVel and intraoCular gasOphthalmology 93:642−645,1986

6)Vote BJ, Hart RH, Worsley DR, et alVisual loss after use of nitrous oxide gas with general anesthetiC in patients with intraoCular gas still persistent up to 30 days after VitreCtomyAnesthesiology 97:1305−1308、2002

7)Seaberg RR, Freeman WR, Goldbaum MH, et alPermanent postoperatiVe Vision loss assoCiated with expansion of intraoCular gas in the presenCe of a nitrous oxide-Containing anesthetiCAnesthesiology 97:1309−1310、2002