今回は「乳房温存療法事件」ー最高裁平成13年11月27日判決ーを題材に、当時の医療水準としては「未確立治療」であった「乳房温存療法」に関して、医師に「未確立治療」に対する「説明義務」や「転医義務」が有るかを論じてみたい。 本来「インフォームドコンセント」や「説明義務」と言うものは、「確立された医療水準」に達した治療法につき論じられていたものである。それが「未確立治療」の範囲まで本判決で広がったのであり、医師に厳しく、説明義務の水準は著しく高くなったと言える。以下、事案の内容を見てみる。
被上告人医師Aは外科系開業医であるが、乳ガン研究会の正会員でもあり、診療科目にも「乳腺特殊外来」も併記しており、乳ガンの手術も手がけていた。本件手術の前にも、乳ガンか否かの限界事例につき乳房温存治療法を1例実施した経験があるが、放射線照射は行っていない。 上告人患者Bは当時43才、女性。平成3年1月28日以降医師Aの診察を受け、生検等の結果、同年2月14日までに乳ガンと診断された。医師Aは、乳房を全部切断する「胸筋保存乳房切除術」を行うこと、乳房を残す方法も行われているが、この方法の予後は不明で、放射線で黒くなったり、再手術を行わなければならないこともあることを説明した。 同年2月15日患者Bは、乳房温存療法に触れた新聞記事を読んだ。同記事には、乳房を失うのが当然とされてきた乳ガンの治療が乳房を可能な限り残す方向へ変わってきたことが書かれていた。同年2月26日、患者Bは入院の際、医師Aに自分の心情をつづった手紙を渡した。手紙には「乳ガンと診断され、生命の希求と乳房切断のはざまにあって、揺れ動く女性の心情の機微」が書きつづられていた。 同年2月28日、医師Aの執刀で、患者Bは「胸筋保存乳房切除術」を受けた。
(1)手術当時(平成3年)の「乳房温存療法」の評価: 「乳房温存療法」は、それが奏功した場合には概ね患者の満足を得ており、運動障害の点、美容的側面や患者の精神的側面及び生活の質の観点では、医療水準上確立した術式である乳房切除術に比べて優れていると評価できるものである。欧米では「乳房温存療法」は乳房切除術に比べて、乳ガンの再発率、生存率の点で劣っていないか、むしろ優れていることが確認されていた。日本では、乳房温存療法の普及が比較的遅れており、乳ガン研究会の調査によれば乳ガン手術中、乳房温存療法を実施した割合は平成3年度で12.7%であった。日本で実施された乳房温存療法の報告では再発例もなく、実施した医師の間でも同療法が積極的に評価されていた。 平成元年4月には「乳ガンの乳房温存療法の検討班」(いわゆる霞班)が組織され、同年10月には「乳房温存療法実施要項」が暫定的に策定され10施設で臨床的研究を開始した。しかし、本件手術当時、霞班による臨床的研究成果も未発表であり、同療法の術式も未確立であった。同療法が専門医の間でも医療水準として確立するには臨床的結果の蓄積を待たねばならない状況にあった。 他方、患者Bの乳ガンは、霞班の定めた「乳房温存療法実施要項」の適用基準を満たしていた。また、医師Aは本件手術当時、乳房温存療法について、同療法を実施している医療機関も少なくなく、相当数の実施例があり、同療法を実施した医師の間では積極的評価もされていること、患者Bの乳ガンが上記霞班の定めた「乳房温存療法実施要項」の適用基準を充たし、乳房温存療法の適応可能性があること及び乳房温存療法を実施していた医療機関を知っていた。 (2)未確立治療法に関するインフォームドコンセントの基準: 一般的に言うならば、実施予定の療法(術式)は医療水準として確立したものであるが、他の療法(術式)は医療水準として未確立のものである場合には、医師は後者について常に説明義務を負うと解することはできない。 しかし、このような未確立の療法(術式)であっても、医師が説明義務を負うと解される場合があることも否定できない。 1)少なくとも、当該療法(術式)が少なからぬ医療機関において実施されており、相当数の実施例があり、これを実施した医師の間で積極的評価もされており、2)患者が当該療法(術式)の適応範囲内であり、3)患者が当該療法(術式)の自己への適応の有無、実施可能性について強い関心を持っている場合などにおいては、たとえ医師自身が当該治療法について消極的な評価をしており、自分では実施する意思が無い場合でも、患者に対して、医師の知っている範囲で、当該治療法の内容、適応可能性やそれを受けた場合の利害得失、当該治療法を実施している医療機関の名称や所在などを説明する義務がある、と判示した。そして、平成3年2月当時乳房温存療法に関する十分な説明をせずに乳房切除術を実施した開業専門医の責任を肯定した。
(1)従来の最高裁判決: 未熟児網膜症高山日赤事件(最高裁昭和57年3月30日判決)では、「医療水準」の基準を「診療当時のいわゆる臨床医学の実践」とし、未確立の医療水準に満たない新規治療法に関しては転医を含む「説明義務」は存在しないとした。具体的には「厚生省研究班」が「未熟児網膜症に対して光凝固が有効」とした昭和50年の報告書が出た時点で、光凝固法が「医療水準」になったとして、昭和44年当時未熟児網膜症に対して光凝固の説明もせず、転医も指示しなかった医療機関の責任を認めなかった。 (2)今回の乳房温存療法最高裁判決: 一般論としては「未確立治療法」について常に「説明義務」があることは否定したが、限定を付けた上で「未確立治療法」についても「説明義務」があることを認めた。元来「医療水準」というのは、これを充たさなければ法的義務違反になるとの意味で底辺を画する基準であるはずだが、医療水準に満たない「未確立治療法」にも限定的ながら「説明義務」を認めたことで、医師に要求される説明義務の水準は著しく高くなり、医師の新規治療に対する絶えざる研鑽が要求されることになったと言えよう。女性にとっての乳房の精神的・心理的価値の特殊性や、患者Bの「心情を訴えた手紙」はこの判決に影響しているとは思うが。